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「マルハラ」とは
「句点があるだけでハラスメントになる」という事実(たぶん)に
衝撃を受けた人も少なくなかったと思います
文章というものは、社会の中で「情報を伝えるツール」として広く使われていますが
そのツールのなかの、ひとつのパーツでしかなかった【句点(。)】がまさかの「ハラスメントな存在」になったのです
マルハラの背景
この【句点(。)を省く】という表現は
すでに2000年代初頭、ケータイ小説の流行により登場しています
句点の代わりに絵文字や改行を多用する表現が出現してきました
そして、LINEやMessageやSNSのDM(ダイレクトメール)が主流なメッセージツールとなり、
それらのデザインには【吹き出し】が多用されるようになりました
これは定型文のやりとりではなく「自分の言葉でしゃべる」ことが
オンラインのテキストコミュニケーションにおいて重視されているということでもあります
この【句点(。)を省く】という表現はわたしたちの身近なマンガにも用いられています
マンガでは普段可視化されない見えない【しゃべり】が【吹き出し】によって表面化されます
そしてマンガの吹き出しで句点が登場することは稀です
また、わたしたちが自分の頭の中(心)でしゃべるとき、
ほとんどの人は読点を意識していないと思います
頭の中(心)に近いものとして【句点(。)を省く】という表現方法が浸透したことで
結果的にオンラインでテキストコミュニケーションが
より【しゃべり】に近付いていったと考えられます
「マルハラ」の原因と対処法を考える
さて、ここまでの文章を句点(。)を使わずに書いてきました。
マルハラの法則において逆説的には「句点(。)が無いことで気軽に感じる」という効果が見込めるはずですがおそらくこの場においては、その効果は期待できないはずです。
その一因として、この場において、筆者と読み手の関係が希薄であることがあげられます。
関係のみならず接触頻度が希薄であればあるほど
【句点(。)】の有無に、印象は左右されないからです。
多くのハラスメントは現在「特定の他者へ迷惑をかける行為」として定義されていますが
これは、他者への配慮や同意なく、心身のセンシティブな領域に踏み込んでいくこと良しとせず、
いかなる環境においても「これくらい自分(相手)さえ我慢すれば……」という小さな自己犠牲を減らしその自己犠牲や抑圧がトリガーとなる重大な事柄を未然に防ぐ試みでもあります。
現代日本において他者への尊重のみならず、自己への尊重が注目されるなかでの過程的変化であり、
冷静かつ慎重に判断する必要がある、非常に難しい問題でもあります。
同一のコミュニケーションであったとしても、
その関係値によってハラスメントに変化する場合があるからです。
それはあらゆるハラスメントの根本的には
「コミュニケーションにおける関係値の誤認とそれによる同意の欠如」があるのではないかと考えられているからです。
これはハラスメントの指摘を「関係性と容認」に置き替えるとわかりやすいかもしれません
例①
【置換前】
「それ、ハラスメントです」
↓
【置換後】
「そのコミュニケーションはわたしたちの関係性においては不適切であり、
その発言に容認をもって応えることができません」
例②
【置換前】
「これは、ハラスメントじゃないですよ」
↓
【置換後】
「このコミュニケーションはわたしたちの関係性においては適切であり、
この発言に容認をもって応えてもらうことが可能です」
まどろっころしいですね。
それでも、誤解や不和というのは省略から生まれやすいこともまた事実です。
そしてマルハラの意図を省略せずに考えたとき
「句読点があると威圧感を感じる」という理由から
「互いに威圧感を与えあう関係性ではない」という主張を読み取ることができます。
つまりマルハラを解決するための本質は【句点(。)】の有無それ自体にはなく「オンラインのテキストコミュニケーションにおいても威圧を行わない」という約束が守られることにあるのではないでしょうか。
そしてそれは「自分は相手を威圧してない(=相手を被害者にしない)」という理解を求めるアクションと同時に「相手が自分を威圧することはない(=相手を加害者にしない)」という信頼により解消できるのではないかと考えられます。
「マルハラ」……個人的には『句点(。)で印象が左右されない文章を心掛けよう……』と思いなおす大変興味深い言葉でした。